理屈では無く、ただ身体を動かしたい。
抑えきれなくなっていた奥底の感覚が、
ボクの体を動かしていた。

The Final Frontier

kagawa daichi

しばらく閉じていた両目を、ゆっくり見開く。

左目に映る、温かな網膜投影広告の世界。
しかし右目には、冷たいアスファルトの街だけが映っていた。

やはり気のせいじゃなかった。
これは、掴まされたな。イタズラにもほどがある。

なんというか、左右バラバラになった半身を、無理矢理繋ぎ合わせているような感覚。そういえばそんな特撮ヒーローが大昔いた気がする。あんな感じなのかも。

正直、少し不安になる。身体がオフラインになるなんて、それこそ何年ぶりだろうか。まるで半裸——上下じゃなくて左右——で、街中に立たされているような気分だ。

雨がポツポツと降り出した秋葉原駅前。網膜投影広告が映らない生身の右目で、降り始めたオフラインの雨を眺めながら、ボクは秋葉原駅の直ぐ横、センターの入り口で立ち尽くしていた。

右首のスリットからEDIを入れ替えた瞬間から感じた違和感。自分の左半身だけがオンラインになっている。右半身は生身の状態。ひどいイタズラだ。こんなモンに3万払ってしまった自分に自己嫌悪が半端ない。金額の問題じゃない。これじゃエフェクトがどうこう話す以前の問題だ。欠陥品。騙すにしたって、クールじゃない。

大きなため息をついたあと。なんだか、無性に、もの凄くムシャクシャしてきた。思わず、EDIの入っていた紙袋を地面に叩きつける。・・・・・・分かってる。周りはドン引き。しかたないじゃない。そんな気分になったんだから。そういえば怒ったのって何年ぶりかな。

『レジスタンス、それはプログラミングされた心の解放、それを仕組んだプログラマー達に対する闘争』なんて、訳の分からない大仰なことが説明に書いてあったから、一体どんなものかと思ったけど・・・・・・ただのガセネタだった。urWに転がる情報を鵜呑みにしたのが間違い。信頼できるサイト——まあそもそもurW自体に、信頼もクソもないけど——ってことだったけど、結局は、刺激を求めるリスナーたちの愛を食い散らかすような輩がいる、いわゆる、終わってる場所だったのだ。・・・・・・切り替えよう。できるだけ怒りを抑えて、不審者に見られないよう、ゆっくりと地面の紙袋を回収する。

その時ハッとした。よく見ると、紙袋に何か書いてある。無地だったはずだけど。

それはTT——タイムテーブル、だと思われる——だった。その横には日時や場所も書かれているみたいだ。これはなんだろう・・・・・・ロゴみたいなものも書かれている。パーティー名だろうか。アルファベットでTFF、と書いてあるロゴ。
しかし、だ。なぜかそれらは右目にしか見えない。左目では全く見られない文字。インプラントを付けてると見えなくなる特殊なインクでもあるのか? 普通、逆だろ。

両目だと読みづらい。左目を手で押さえ、右目だけで改めて紙袋を確認する。日時・・・・・・Oct. 27, 2034、今日だ。今の時間は・・・・・・15時30分。2番目のDJは15時45分スタート。てことは、そろそろ一人目のDJが終わる。場所はどこだ・・・・・・ああ、あそこか。でも、こんな時間にやってるパーティーなんて聞いたことがないけど。

ボクは振り返り、センターのなかに戻る。一体どういうつもりなのか。EDIを取引した、あのバイヤーに確認しないと。1F奥、いつもはシャッターが閉まってるはずの、あの店へと向かった。

ここは、かつて電子パーツなどを取り扱っていたラジオセンターと呼ばれる場所。古びた姿はそのままに、今ではマニアックなシンセモジュール、その部品、そして埋め込み型のインプラント、そのなかでも『EDI』と呼ばれるものを大量に扱っている。日本のトラックメーカーとリスナーからは聖地と呼ばれていた。

まあモジュールやEDIなんて、基本的にはどこのストアでも扱っているし、わざわざ直接買う人間なんて少ないと思うけど、ここにはここでしか扱ってない特殊なものが手に入る。それが聖地の理由。

狭い通路の両脇を隙間無く埋める2階建ての商店街。2Fの多くの店は、主に特殊なシンセモジュールを扱っている。実は2Fはそこまで詳しくない。2Fは偉大なるメイカーたちの神聖な場所だ。そんな場所に、ボクのようなリスナーがノコノコ行くべきじゃない。メイカーとリスナーは同等ではあるが、リスナーは常にメイカーに敬意を払うべきだとボクは常々思っている。彼らの作る数多のトラックが、ボクらの人生を豊かにしてくれているんだから。

そんなボクらリスナーたちは、主にインプラントのなかでも『EDI』と呼ばれるものを扱う1Fに集まる。ここには普通のストアでは手に入らない国内認可前の海外製はもちろん、ハンドメイドや、企業が秘密裏に調査を行うため、新型をばらまくなんてこともある。

そもそもインプラントは、疑似感覚を直接自分の脳や感覚器官に正確に伝える為のデバイスでしかなった。その場に居ながら、この世の全ての感覚をネットを通じて『経験』することができる。

例えばブラジルのリオカーニバル。インプラントによって、まるでその場にいるような感覚を自宅にいながら感じることができる。モニター越しやスピーカーで感じるものとは訳が違う。目や耳を通さず、ダイレクトに身体の感覚器官に伝えられる情報データ。
元々の開発経緯でいえば、軍事兵器開発の産物なわけだけど、知識と情報だけをやりとりしていた以前のネットとは違い、『経験』をもネットから手に入れられるようになったのだ。

とはいえ、インプラントもまだまだ完全なものじゃない。味覚はなかなか正確には再現できず、本当に旨いモノを食べたければ、直接食べるしかない。ブラジルのシュラスコは現地に行って食べるしかないのが現実だ。

ボクは、リスナーがひしめくセンター1Fの狭い通路を走っていた。
店の前に着く。しかし、既にシャッターが閉まっていた。あの一瞬の取引の間しか開けないのか・・・・・・ここまで徹底してると、なんだか狐につままれた気分になる。幻でも見ているようだった。もしかしたら、ボクは何かのゲームに巻き込まれてるのか? なんてバカなことを考えた。少し笑える。自然に口角が上がっていた。

センターから出たボクは、左目を手で押さえ、もう一度TTを確認する。・・・・・・急げば2番目のDJの頭から間に合うかも・・・・・・なんて考えてしまったが、本当にボクは行くつもりなのか? 怪しいことこの上ない。しかも、あの場所に。
信じる根拠もない粗末なフライヤーを、ボクは改めて握りしめた。フードを被る。ボクは歩き始めた。地図は頭には入っている。リアルでは行ったことのない場所。オンラインイベントでは何度も『経験』している、あの場所へ『MOGRA』へ。

秋葉原の中央通り。道を挟んで、人気アニメのキャラクターたちの——と思われるもの。ボクはあんまり観ないけど——網膜投影広告が幾重にも街に重なり合う光景は、世界でもなかなか見られない、ここならではの景色だ。耳には——正確には聴覚に直接送られている音だけど——その広告たちの音も鳴っている。気になる広告に注目すると、その広告の音量のバランスが変わる。これ、あまりボクは好きじゃ無い。視覚は良いんだけど、音の世界まで企業に支配されている気分になる。だからうつむき加減で歩くのがデフォ。でも最近だと地面にまで網膜投影広告が置かれていて、うつむいていても広告が目に入って、うざったい。しかも音楽を聴いてる最中でも、聴覚に割り込むようになってるから、もはや軽い嫌がらせにも感じるくらいだ。

だからあまり外に出歩くのは好きじゃ無い。だって、家に居たって、なんでも『経験』できる時代なんだから。そういえば大学進学で上京してからかもしれない。外に出歩かなくなったのは。東京の街は網膜投影広告が多すぎる。つまり外はノイズが激しい。家のほうがいい。純粋に音楽を楽しめる。しかもEDIさえあれば、世界中の音楽の全てを体感できる。

インプラント技術が社会に定着し始めたあと、あるとき誰かがふと思った。このインプラントを使って、直接、情報を身体にフィードバックできないか。それがいわゆる拡張現実だ。代表的なものが網膜投影広告。網膜に、作られた情報が映し出され、現実の風景に被さってくる。インプラントを付けた瞬間から、ボクらは常に数枚のレイヤーを重ねて現実を見ている。もはや素の現実を目で見る機会のほうが珍しくなった。

音もそうだ。誰かと目の前で喋ったり——インプラントを通せば、直接口で喋らなくてもいいけど——自然の音以外、耳は音楽を聴かなくなった。音楽はインプラントを通じて、直接聴覚に届けられる。非常にクリア、かつ臨場感を持った音として。鼓膜というアナログな器官を通じて届けられる曖昧なものではなく、誰しもが共通する、再現性の高いものとして共有されているのだ。フェスやクラブなどにいっても、スピーカーからの音——いちおう鳴っているが——を聴いているリスナーはいない。皆、インプラントから聴覚に送られる音楽を楽しんでいる。昔、都市部では、ライブハウスやクラブの騒音問題が問題になっていたらしいけど、今はそんなの皆無。正直、ほぼどのイベントもオンライン配信を行っているから、その場所に行く理由すら無い。インプラントのおかげで、その場に居る体感もバッチリ再現されているから。とはいえ、あくまでもそれは個人の意見。人々がどこかに集まることを楽しむリスナーもまだまだ沢山いる。まあ、ボクは人混みが好きじゃないから。

そしてもう一つ。それがボクらマニアックなリスナーが求める、EDIという特殊なインプラントの存在だ。音楽を『聴く』だけでなく新しい感覚で楽しむことができる、という機能が付加されているものだ。楽しむことができる、なんていうと、なんだか安っぽい感じがするけど、EDIは音楽というものに新しい価値観を与えた、といっても過言じゃ無いと思う。今の世の中、音楽は身体で感じるものとして受け入れられている。

EDIを使って表現されているソレは、いわゆるエフェクトと呼ばれている。なんというか『身体全身で音が鳴り響く』って言い方が近いかもしれない。音を耳で聴くだけではなく、その音に合わせたエフェクトを、インプラントを通じて全身の感覚器官に伝えるというものだ。メイカーたちはトラックとともに、EDIを通じてリスナーたちにエフェクトも与える。音とエフェクト。それが美しく合わさったものを彼らは創造しているのだ。

視覚には、音に合わせた映像が映し出される。目で直接見ている風景を歪ませたり、色を変えたり、そういったエフェクトが基本的には多い。最近では網膜投影広告と連動させて、人それぞれ見ている実景を使い、そこに映像を被せたものをMVとして完成させている、なんて凝ったモノもある。去年、人気だったのは、AIアイドルがトラックに合わせて、各々の視界のなかの街中で踊り回る、ってものだった。まあ面白かったけど、あんまり自分の好みではなかったかな。

最大のウリは、いわゆる皮膚感覚、表在感覚に対するエフェクトだ。音に合わせて、身体中の皮膚が、骨が、ズンと響く、といえばいいのか。なかなか説明するには難しい感覚だ。音に身体が動かされるような。例えば椅子に座って聴いていても、エフェクトによって、まるで身体は激しく踊り出しているようなイメージ。それがとてつもなく心地良い。もはやEDI無しで音楽を聴いてるが勿体ないとも思えるほどだ。

とはいえEDIは一般的に浸透しているとは言い難い。年老いた・・・・・・円熟したリスナーからの反応は悪く、ジャンルとしても主にダンスミュージックのトラックに頻繁に用いられるもので、一般的に——特にこの国では——マイナーな存在だ。だからそんなEDIを専門に扱う秋葉原ラジオセンターは、ボクらリスナーにとっての、そしてメイカーにとっても聖地となっている。

EDIの種類によって、いわゆるエフェクトの『鳴り』は大きく変わる。国内製のものは、基本的に『鳴り』が薄く、刺激が弱い。逆に海外製は『鳴り』が強い。別に強弱の問題じゃないけど、やっぱり、刺激強めの海外製が好まれるのは仕方が無いことだろう。変わったモノだとハンドメイドというものもある。作る職人——とリスナーからは崇められる——によって『鳴り』の芸術性をウリにしている。市販のものよりはクセが強いが、ボクみたいな変わったモノ好きのリスナーはハンドメイドにハマる人が多い。ここ最近のお気に入りは、目に『鳴り』を持ってきているヤツだった。目といっても網膜のエフェクトではなく、目玉、それ自体にエフェクトをかけている。それで、4つ打ちのBPM180のトラックを聴いたときは、キックに合わせて目玉の震える感覚の素晴らしさに感動して、しばらくは全てのトラック、フェスやクラブのオンラインイベントでも使用していた。確か、あれはドイツ人の職人が作っていたはずだ。

EDIのエフェクトは、もちろんオンラインでもリスナーに共有される。自宅の椅子で、ボクはインプラントで世界のクラブ、フェスを巡る。音楽の全てを自宅で感じているのだ。それがボクのリスニングスタイル。

そう、だから『MOGRA』に、直接行く理由なんてなかった。

しかし今のボクは、雨の秋葉原を足早に歩いている。常時うつむき加減の顔も自然と上がり、網膜投影広告だらけの秋葉原の街を眺めている。そう。半分の現実とともに。

煌びやかな左目、騒がしい左耳とは全く真逆の右半身の世界。暗く冷たい、なんの装飾っ気もないビルが立ち並ぶ街。たまに誰かの話し声と車の音が聞こえる、静かな街。こんなに人がごった返しているにも関わらず、まるで生気が無いようにも感じる。いや逆なのか? これが秋葉原のリアルだったのかと改めて感じた。なにか世界の秘密を知ってしまったかのような気分。
謎のインプラントが誘う道。この先に何が待っているのか。そんな自分に起きている状況を、ボクはいつのまにか楽しんでしまっていた。

自然と歩き慣れないスピードになり、息が切れる。普段の運動不足が祟っているのかも。左目に時刻を映す。良かった。これならDJのスタートに間に合いそうだ。さらに歩くスピードが速くなる。

あの場所に近づくにつれ、ボクは身体のおかしな変化を感じ始めた。ドン、ドン、ドン、ドン。低く唸るキックの、こもった音が段々と聞こえ始める。

でも・・・・・・右耳だけに。左耳からは何も聞こえない。おかしい。また逆だ。いや、逆の逆? よく分からなくなってきた。オンラインの左耳には聞こえず、オフラインの右耳からしか聞こえない音。文字の次は音か?
思わずボクは走りだしていた。ドキドキと早くなる鼓動。それに呼応するように、ドン、ドン、ドン、ドン、右耳のキックの響きも大きくなっていく。 これは、多分BPM135くらいか。そんなに速くない。EDIで好まれるトラックは大体が160から180。ハードなやつだと200越えも珍しくない。速めのほうがエフェクトの『鳴り』が良い。だから、あんまりボクは聴かないBPMだったりするけど・・・・・・。

そしてボクは『MOGRA』と書かれた扉の前に立った。一度も来たことはないけど、頭のなかの地図は正確だった。間違いない。この場所で今、鳴っている音。相当な爆音なのがここでもわかる。確かメインフロアは地下のはずだ。にも関わらず、ここまで響く、右耳にしか聞こえない低音。それに惹かれるように、ボクは重そうな扉に手をかけた。

一瞬、躊躇する。ボクが感じている今。それが全て妄想だったら。この謎のインプラントが見せている幻想だったとしたら・・・・・・。しかしそんな不安も、高まる好奇心で直ぐにかき消された。

力強く、ゆっくりと扉を手前に引き寄せる。開いた。ちょっと安心。その安心感と同時に、音はさきほどとは比べものにならないくらい鳴り響く。ヴォン、ヴォン、ヴォン、ヴォン。この音が聞こえない左半身でも、その音圧を感じた。なんだかビリビリと全身の肌が震えている。EDIとは違うけど、これはこれで悪くない気分だ。

「ねえ! 中に入って、扉閉めてもらっていい?」
入り口の奥から女性の声が聞こえた。
「ご、ごめんなさい」。思わず謝罪の言葉を口に出してしまう。ボクは急いで扉を閉めた。

「ありがと。付けてる人には聞こえないけど、念のためね。この辺、付けてない浮浪者もいるから、たまに、うるせー! って怒鳴り込んでくるんだよね」
そうボクに話しかける女性。受付の人だろうか。歳でいうと、ボクより少し年上に見える。20代中盤くらいか。あまり化粧っ気はないけど、少し濃いめの赤い口紅が目立つキレイな顔立ちの人。そしてTFFと書かれた、あのロゴのTシャツを着ている。この場所で合っているようだった。

「あれ? あんまりみない人かな。どうやってきたの?」
彼女の少し警戒している表情がみえた。慌ててフードを脱ぐ。
「こ、これ。アキバのラジオセンターで買ったら、ここにTT、なんかのロゴが書いてるのに気がついて。音が聞こえてます。右だけ」
そう言いながら、ボクはポケットからあの紙袋を出した。
「お! そうなんだ。じゃあここくるの初めてだよね? 下まで案内するよ。きてきて」
さきほどの表情とは打って変わり、悪戯っぽい顔になった彼女は、地下のメインフロアへ続くであろう階段の前で、ボクを手招きした。

彼女の背中を追いながら暗い階段を降りていく。その度に段々と音が明瞭になっていく。どうやら、かなりのミニマル。そしてウワモノの音が少ない。EDIのエフェクトにはあまり向かないジャンルだ。そんな考えとは裏腹に、なぜか、そのシックなビートに鼓動が昂ぶっている自分がいた。

「あ、ちょうど次のDJ始まったみたい。ちょっと聴いてみたかったんだよね。キミを案内する前に少し踊っちゃおっかな」
彼女がこちらに振り向いてボクに話しかけている。すでにボクの右耳は、フロアから響くミニマルビートに支配され始めていて、ほとんど彼女の声は聞こえない。逆に左耳にだけ、彼女の声がキレイに聞こえる。少しハスキー目の声だなー、なんてボクの左半身は冷静に思っていた。

階段の先、地下のメインフロアの扉に着く。おもむろに扉を開く彼女。その瞬間、フロアから一気に音が流れ込んできた。
第一印象。ちょっと苦しい。右半身だけが激しく昂ぶり、左半身は恐ろしいほど静寂している。その身体のコントラストの落差に、胸が苦しくなってきた。これは・・・・・・きっと解放されたいんだ。身体がそう叫んでいる気がした。左半身が、このビートを求めている。世界の全てと繋がっているはずの左半身が、酷く不自由を感じている。そのアンバランスさがボク自身を苦しめているようだった。

「あ。ごめーん! 半々のヤツ、付けたままだったよね。外してっていうの忘れてた」
ボクの変化に気がついたのか、彼女はボクに近づき、首のスリットに手を回してきた。ふわっと匂う彼女の香り。その甘い香水の香りと、フロアのアルコールの臭いが交じってボクの鼻孔をくすぐった。その匂いに導かれるように、彼女の手に身を任せるボク。・・・・・・そういえば、女の子とこの距離でまで近づくのって久しぶりな気がする。なんとなく、今まであまり思い出すことのなかった、元カノのことを思い出してしまった。彼女の手がボクのEDIを外す。その行為はまるで、なにか神聖な儀式にも感じられた。でも冷静に考えると、女の子が男性の首のスリットからEDIを抜いているのって、ちょっとエッチなのかも。そんなことを考えているうちに、ボクの身体の全てがオフラインになった。

右半身だけ聞こえていた音が、一気に身体全体を包み込んだ。改めてすごい音圧だ。目の前の彼女が、ボクをみて笑っていた。ちょっと間抜けな顔をしていたのかもしれない。でもそんな彼女の笑い声も、もう聞こえない。こんなに身体は近いのに、ボクと彼女、としてフロアで踊るリスナーたちは、音圧の壁によって分断されてしまっているようにも感じる。なんというか。これはEDIのエフェクトとはまた違う、まるで音楽が身体に纏わり付いてくる感覚。また、それとも違う、なにか感じたことのない感覚も覚えた。それは身体の表面ではない、もっと奥底から湧き上がりかけている、なにか得体の知れない感覚。これはなんだ。

彼女はボクに何か告げると、フロアの真ん中へと向かっていった。
フロアの轟音に包まれながら、ボクは改めてメインフロアを見渡す。オンラインパーティーでは見慣れているはずの風景。何度も『経験』しているはずの空間だったはずなのに、今ここは、見たこともない、まるで別次元になっていた。

100人も入れば満員のフロアには、恐らく50人くらいが踊っているように見える。このハコのパーティーは、主に派手なVJや照明などが多く使われる、いわゆるEDI向きなものが多かったはず。
しかしこのパーティーは、ほぼ暗闇。時折光るレーザー以外、フロアを照らす照明は少なく、辛うじて横の人の顔が分かる程度の明るさしかなかった。DJブースすら、どこにあるのか正確にわからない。暗闇のなか、スピーカーからの轟音と音圧だけが支配する空間。

彼女がボクから離れていって、実は少し不安に駆られていた。インプラントは抜かれ、身体は完全なるオフライン。この暗闇のなか、誰かになにをされてもおかしくない。やっぱり来てはいけない場所にきてしまったのかもしれない・・・・・・。そんなボクの不安をよそに、フロアの熱気はさらに高まっていく。今まで鳴っていた、地を這うようなビートはそのままに、そこに突然美しいシンセのアルペジオが徐々に聞こえ始める。恐らくDJが次の曲をミックスし始めたのだろう。暗闇のなか視界を奪われているボクは、自然とフロアの音に集中していた。

ゴン、ゴン、ゴン、ゴン。スピーカーから流れるキックの音は、2つのトラックが重なりあって、若干歪んでいるようにも聞こえる。しかし、かなりロングミックスだ。なかなか切り替えない。
いつも聴いてるトラックは、ハイスピードで切り替えるミックスばかりだった。矢継ぎ早に変わっていくトラックの展開を楽しむのが主。だから、ここまでロングにしてしまうと、2つのトラック同士がぶつかり合ってしまう気もするけど、DJが上手いのだろう。違和感がない。むしろ2つが同時に重なり合っている、このロングミックス中に、なにかが誕生している、そんな興奮を覚えた。

瞬間、キックの低音が切れる。その代わりにシンセのアルペジオの存在感が拡がっていく。フロアを包んでいた音圧は一時的に収まり、まるで空気が軽くなったように感じる。思わず深呼吸する。いつの間にか息苦しく感じていたことに気がついた。そして暗闇のなかのリスナーたちの歓声が突然響きわたる。音圧から解放された喜びなのか、次に繋がるトラックへの期待感なのか。ボクはフロアの盛り上がりどころが掴めず、暗闇に響く歓声をただ聞いていた。

フロアの中央から、彼女が戻ってきた。
「ヤバイヤバイ! これ、この前刷ってた3番のレコードだよ! ここで聴けて、めっちゃ嬉しい」
ボクの手を突然握り、その場でジャンプしている彼女。その姿は、まるで昂ぶりを抑えられない子供のようだった。そしてまたキックの音圧がフロアを支配する。彼女はフロアの中央を向いて、ボクの目の前で激しく体を揺らしていた。

気がつけば、不安な気持ちは薄まっていた。DJのミックスと、この空間を身体全体で感じていた。そして同時に、あの身体の奥底から湧き上がってくる、謎の感覚が大きくなり、段々と抑えられなくなってきていた。

ここには今、身体中を駆け巡るEDIエフェクトも、聴覚に直接響く高解像度の音も無い。視界に映る煌びやかな光も、美しいエフェクトも見えない。

今、このフロアには、音楽とボクらしかいない。

BPMは決して速いとはいえない。展開も少ない。基本的にはミニマルなビートを繰り返すトラック。ウワモノのメロディも少ない。音も派手じゃ無い。EDIのエフェクトと合わせたトラックのような刺激も薄い。

しかしなぜだろう。ボクの身体は自然と動いていた。動かずには、踊らずにはいられなくなっていた。EDIのエフェクトで身体を動かされているという感覚とは違う、理屈では無く、ただ身体を動かしたい。抑えきれなくなっていた奥底の感覚が、ボクの体を動かしていた。ビートに身体も、そして心も揺らされているような気分。なんと心地良いのか。

安っぽい言葉だが、これが音楽の力なのもしれない。もしくは、このハコのスピーカーの音圧の力か? もしくは彼女に、ただ感化されているだけなのか?

ボクは彼女の近づき、耳元に口を近づけた。
「ねえ! このパーティーってなんなの? なんでこんなことしてるの?」
音圧に負けないよう大きな声で話した。その言葉に動きを止めた彼女は、振り返ると、にやっと笑いながらボクの耳元で、同じく叫んだ。
「気に入った? 付けてエフェクトで楽しむには、勿体ない音じゃない?」
ほとんど恋人の距離くらい顔を近づけて話すボクたち。でも不思議と恥ずかしさは感じない。ここでは、そうしていることが自然に感じられた。

「勿体ないってよくわからないけど。じゃあ! あの半分になっちゃうEDIは?」
「あれ? イタズラだよ! キミみたいな、エフェクト楽しんでる人を、このパーティーに呼び込んじゃうゲーム!」

イタズラ・・・・・・だって? ていうかやっぱりイタズラだったのか。いやいや。イタズラだけで、あんな、インプラントが感知できなくする技術って。そんな特殊なもの作れるとは思えないんだけど・・・・・・。
「イタズラって・・・・・・ねえ! それは誰がやってるの!」
「しらなーい。主催の誰かじゃない? ねえ! そんなこといいから、とりあえず踊ったら!?」
会話を切り上げ、彼女はまたボクの目の前で揺れ始めた。ようやく暗闇に慣れてきた目で、彼女の顔をみる。揺れている彼女は、なんというか、美しかった。

しかし、もうそんなこともどうでもよくなった。いつの間にか、あの奥底から湧き上がっていた感覚に、ボクは支配されていた。そして、この空間とこの音楽がいつまでも止まらないことを心から祈っていた。音圧と轟音の中、いつまでも体を揺らし続けていたい。それが今のボクの幸福なのだと、なぜか確信をもって感じていた。

それでも、もうひとつだけ、彼女に確認しておきたいことがあった。

「ねえ! これってなんてジャンル!? かなり渋い。今まであんまで聴いたことないかも」
「これ? なんか、テクノっていうらしいよ。アタシも最近ハマった。良くない!?」

「・・・・・・いいかも」
思わず呟いてしまったその言葉は、音圧にかき消されて、彼女には聞こえなかったと思う。

このとき、ボクはオフラインの身体で、生まれて初めて音楽を『経験』していたのかもしれない。誰かに踊らされているのではなく、自ら踊りたくなってしまう。どこにでもあるようで、どこにもない音楽。
・・・・・・テクノ、か。

TTを確認するとクローズは23時だった。安心した。まだまだ楽しめるようだ。

そして、フロアにまた別の音が響き始める。DJのミックスが始まったようだ。
それは、今まで鳴っていなかった、高速でうねる派手なシンセベースの音だった。
その音にボクは、ガッと脳を鷲掴みにされた・・・・・・気がする。

まだまだパーティーは始まったばかりだ。

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灰色い街の片隅で少年は出会った。
拡張されきった自分の世界を、
もしかしたら変えてくれる存在に。

DIVERSE SYSTEM × 秋葉原重工

コンピレーションアルバム

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DVSP-0227

頒布情報

M3 2019 秋
(第44回即売会)

東京流通センター 第一展示場 2階 P16ab

つづく

Diverse System 秋葉原重工

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